少林寺拳法には開祖、宗道臣師家が唱えられた「半ばは我が身の幸せを、半ばは他人/ヒトの幸せを」という大表題がある。師家はこれを掲げて、少林寺拳法を幸福運動/金剛禅運動と命名されたのである。
人間は自分の全てを犠牲にしてまで他人に尽くす事は難しい。しかし、半分ぐらいならなんとか可能であろうという、現実的な立場に立っての考え方である。そして「このように考えて行動する人が増えれば、世の中は良くなる」というのが運動という言葉の意味である。
さて、ここまでは理解出来るとして、問題はこの考え方がどうすれば身に付くかということであり、幸福の定義が何であるかということである。
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先日、筑紫哲也氏の報道番組で北野たけし氏のインタビューを放映していた。「…昔漫才やっていた仲間の家に行って家族と鍋なんかつついていると、俺なんか忙しそうにしているけれども、人生はこいつの方が勝っているなと思う…」と話す“たけし”の姿を興味深く見た。どのような内容についてのインタビューであったかは忘れたが、幸福の定義について考えさせられる言葉であった。
幸福について師家は、“物心両面の幸福”と言われた。また「豊かさは本当の幸せとは違う!堕落させている原因である!」とも言われた。豊かさとは、多分、金銭を含む物質至上主義を指すのであろうが、これを北野氏の話と重ね合わせると面白い。つまり、人間の幸福が豊かさの中にあるとは確かに言いにくいのである。
普通は地位、名誉、財産、家族、友人、健康に恵まれ、不慮の事故に遭遇しなければ幸福を得たと言える。しかし、まだ不充分であるのか、あるいは心の問題に突き当たるのか、例えば北野氏の言から推測すれば、本当の幸福はもっと身近なところに存在しているのではと思える。また、仏教的無常観からすればそれらは全て砂上の楼閣ということになるが、今は触れない。
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少林寺拳法では(相反するものの)調和を説く。その視点からすれば、物から得る幸福と心から得る幸福は相反するのである。私はこれまで“物心両面の幸福”という意味を、人間が幸せを得る為には“物と心の両方が必要”なのだと解釈して来た。しかしそうではなく、人間が幸せを得る為には“物と心に対する正しい理解が必要”なのだと考えを改めるに至った。
自然に相対して存在している事象を正しく理解する。偏りなく受け止めることが調和ということである。剛柔一体を例にしても、両者がただ一緒に存在している形でも、両者をただ一緒に使用する形でもない。剛は柔を含み、柔は剛を含むのである。相反するということは、敵味方として対立する意味ではない。この点は特に注意を要する。
物心両面の幸福を享受するには、両者を正しく調和させる継続的努力が必要であり、従来はこの視点が抜けていたのではなかろうか…。
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我々が目指す幸福は現実からかけ離れた幸福ではない。また、独り出家して得る心の安穏でもない。それであるから、現実社会の厳しさを無視してはいない。世の中は競争に満ち満ちている。そんな中、「我が身と他人の幸せを」考えられる“調和の心を持った人間性”を育成するのに、少林寺拳法が対戦形式という修行体系を採らない事柄が深く関わる。
「少林寺拳法の拳士は、後輩に技を教えるのが好きなんだ」と師家は自慢されていたが、これは重大なことであった。少林寺拳法の道院には敵がいない。つまり、ただでさえ同好の志の集いである道場は、この勝敗を争わない修行体系によって、利害関係抜きの人間関係が100%純化されて存在しているのである。
そういう環境の中で拳士は技を教え合い、人に与えることの喜びを学ぶ。このように学んだ精神/人間性は厳しい現実社会に直面しても、そこで「何とか半分くらいは…」という具体的な尺度となって相手を思いやる行動となる。
「半ばは我が身の幸せを、半ばは他人の幸せを」という大表題は、布施の精神を現代的に解釈したものであり、我々の考える幸福とは自他のつながりにおいて現出し、幸福運動とはその考えを広げる運動なのである。
なお私は、“半ばは他人”という言葉は必ずしもキッチリ半分という意味ではなく、自分の出来る範囲で無理なくと解釈している…。
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最後に、一道院長として少年拳士を指導している身として、少林寺拳法が対戦形式/勝敗を争わないという修行体系を採用することについて言及しておく。
競争社会だから、より正しい競争を教えなければならないという考え方と、競争社会だからこそ、より正しい人間性を育てなければならないという考え方があろう。優劣の問題ではなく、少林寺拳法は後者の立場を採る。
子供達は世の中が競争であることを多分知っている。スポーツにしろ、学校の成績にしろ、ゲームでさえ勝ち負けは明白であり、生活の中で自然と学んでいるのである。そんな彼等の環境にさらに競争を持ち込んで、一体どのような人間を育てようとするのであろうか?
私は勝ったならば、負けた相手を思いやれる心を持った子供を育てたい。負けたならば、他のことで勝つことを探せるタフな子供を育てたい。さらに言えば、人生には勝ち負けでは計れない別の尺度/喜びがあることを学んでもらいたい。
師家の創始された道により、少年拳士に限らず、ゆとりを持って門下生の指導と自身の修行に当たれることを本当に感謝する次第である。
2001年3月1日 渥美 紳一