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1.卍の真義
少林寺拳法を一般の人や新入門や少年拳士や親御さんに説明する時、「少林寺拳法は守りの武道です。お坊さんの護身術が発達した武道だからです」と話す様になりました。日本ではお坊さんと言えば仏教の僧侶を指します。さらに、「少林寺」の名称から達磨・禅がイメージされるでしょう。
開祖は教範に、仏教、禅、卍の哲理を説いておられます。卍の記号は仏教の象徴です。開祖はそれを「流動する宇宙の実相、生命の起源を象徴したもの」と説明されました。つまり、人間の生命の奇跡的とも言える起源とダーマの法則で動いている宇宙との関係を象徴したものです。
- 今日ではまんじ(サンスクリットでは「スヴァスティカ」)の一つの形は一般にナチスの第三ライヒ(帝国)の非人道的な思想と行動と結び付けられます。そのため、残念ながら西洋では全ての形のまんじが嫌悪されています。しかし、まんじの歴史的・思想的な解釈は数千年遡ります。ここで私が取り上げたいのは、そのような意義です。
私観ですが、命という観点から見ると卍は大切なことを教えていると思います。縦のカギと線は、過去・現在・未来に連なる永遠の生命の連鎖。横のカギと線は、ミクロとマクロに存在する無限の生命の繋がり。縦横の線が交わった点は、永遠と無限の生命が父母の出会いという奇跡によって生まれた「我」を意味する、と考えます。
修行の度に唱える信条の一番目、「我等は魂をダーマより受け 身体を父母より受けたることを感謝し 報恩の誠を尽くさんことを期す」は、宇宙生命の神秘を現した卍に対する姿勢を言葉にしたのであり、これを信条の最初に据えるところに、少林寺拳法の特殊性を感じます。
*縦横が交わった点が「我」。釈尊が生まれた時、七歩あるいて一手を天に向け一手を地に向けて「天上天下唯我独尊」と唱えたとされる。「我」は釈尊個人ではなく一般的に「人間」のこと、つまりこの世に人間の尊厳ほど重要なものはないという意味。
*信条とは、堅く信じて守る事柄。
2.少林寺拳法における卍と合掌・結手
開祖が述べられている通り、少林寺拳法では卍を宇宙の実相と人間の生命の結びつきを象徴する姿と認識します。
卍にはさらに深い意味が込められています。少林寺拳法の思想を、開祖は「愛と力をともに重んじるもの(=『力愛不二』)」と強調されました。さらに、開祖によれば、仏教では卍を表裏に使い分け、表卍を陽の位として慈悲すなわち愛を示すのに用いており、裏卍(卐)を陰の位として理知と力を示すのに用いています。その相対立するものが調和して存在する姿が少林寺拳法の尊重する「力愛不二」を表すのです。
写真の教範表紙にある盾で囲う盾卍は、大切な命を守る意です。転じて、専守防衛である少林寺拳法の在り方を示しています。
昔、少林寺拳法の偽物が現れました。その時の話です。開祖は「彼等は卍を矛で囲ったバッジやマークにしている。全然分かっていない。ワシは困った時お互いが盾になる、助け合える様に盾卍にしたのだ(要約)」と憤慨されていました。
これまでの事を合わせ、少林寺拳法が卍を大切に思うことが理解出来るでしょう。翻って、道着の胸に卍を着けた時から合掌と結手の意味、私たちの在り方は明確なのです。尊い命を有する私と貴方は、いつまでも争いの無い(=結手)平和な間柄でありたい(=合掌)。武術は武道になり、生命の尊重=教育の手段として、少林寺拳法は出発したのです。だからこそ、少林寺拳法が卍を胸に着けたのだと思います。
この願いと決意を込めた、礼であり挨拶であり構えを繰り返す。すなわち、少林寺拳法は生命を尊重し、平和を指向する武道と認識しなければなりません。
3.合掌・結手の技法的な重要性
合掌は結手と一体となっています。合掌=開手と結手=握拳の技法は表裏一体の卍と同じです。
さて、冒頭の開祖の合掌写真を見てください。肘をしっかり張られています。どうしたことか、最近、肘を張らない合掌を見ることがありますが、残念です。後述するように、肘を張る合掌には、技法的な大きな意味があります。
教範第七篇第四章『剛法基本防技に就いて』を開くと、
「少林寺拳法の上受は、在来行われていた拳を握ったままで頭上にかかげる受方と根本的に異なり、筋肉の最善活用による理想的な受方である」
下受には「…五指を開き、伸筋を活用して手刀もしくは腕刀をもって、下方に対し打ち切る如くに受けるのである」
と著述されています。開手受けの場合、筋肉(=伸筋)の最善活用をするのであり、つまり合掌が基本になります。上受、払受、十字受、一字構えは合掌そのものです。すると、普段の礼式が心を養うと共に、防御武器を磨くことになります。拳禅一如の形です。
4.開祖の上受指導
開祖が武専や講習会で良くされた上受の指導を紹介します。合掌礼したままの我々にポンと拍手して手刀で打ち込み、受けさせます。ある時、打ち込んだ直後に「うん?反対の方向に受けた者がおるぞ!」と注意されました。
武術・護身術では、裏に出るのは高等技です。例えば、打込みでも突込みでも形であれば素直な軌道を描きますが、実際は真っ直ぐに来ないで弧を描く可能性があり、裏に出ようとするとカウンターになる危険があります。先生はこれを心配されたのでしょう。
相手が手刀で打ち込んで来た場合、掌側に振身=受ければ表となり、先生の意にかないます。野球ではピッチャーの手の形状から瞬時に球種を判断します。護身術も形状予測するのです。
*現在の科目表は早くから表裏を行わせます(一般部は6級から上受突の表「裏」がある)。前や横に出る裏は、述べた様に高等技です。後・横に退がる天王拳にさえ裏の法形がありません。蹴りに対する法形にも足刀引足波返し以外、裏はありません。これを安易に学ばせると護身の場では危険です。開祖はあの世で「うん?」と眉をしかめているかもしれません…。
少林寺拳法は体捌きを伴う受けを尊びます。これは開祖が若い頃、特務機関員として活動していた満州で中国人ヤクザにナイフで刺されたり、開創当時、凶器=酒瓶で襲われているからです。単に拳足の攻撃を想定した受けではありません。
*「短刀突込み下受打落蹴」や「短刀振上げ流水蹴」など、少林寺拳法では凶器を想定した法形があります。
開祖が本山・本部が建つ香川県の桜の名所、桃陵公園の昔話をされました。「桃陵公園に花見に行くと喧嘩している場面によく遭遇した。仲裁に入ると、『オッサン引っ込んでろ!』と、中には一升瓶で殴りかかってくる奴がおった。で、上受すると瓶が割れた。見ていた者は『拳法の先生、瓶を切った(笑)』となるのだが、ワシのこっちゃから足が出ていて、相手は倒れていた。(要約)」受けたら即蹴りが出た。つまり、体重移動がある体捌き=上受けをされていたのです。
先生の指導による合掌からの上受をすると、自然に両肘を張るようになります。これは、横の防衛ラインを無意識に最大限にするからです。また、縦のライン=合掌は左右からの攻撃を感知する基準になり、受け易いのです。もちろん目は八方目し、中段、下段攻撃にも備えます。
右手の打込みを察知したら、おおよそ両肩が45度を目安に右に振身し、右片手合掌を外し胸前に構え、左片手合掌を顔横に持ってくると、手刀も自然に45度になっているので、そのまま上受けします。肘から上がらないように注意。前に出したら手刀切になる要領です。
*体重移動は開足中段構を例にすると、左5:右5、4:6、3:7(←ここまでは足が上がらない)、2:8、1:9、左0:右10となります。最後の二つは足が床に着いているか片足立かの違い。猫足立ちは1:9です。2:8は上がるが継続できない状態。前述の開祖の上受がどれかは分かりますね!
5.上受の注意点
上受に使用するのは一般に手刀、外腕刀です。しかし、剛柔一体の最も高等な技である五花拳では攻撃者の拳足を捕り固め、相手を傷つけないで制圧・説諭します。そのため、手刀に近い腕刀で上受けを修練します。もちろん、初級者はその限りではありません。頭部、顔面が守れるなら、どこで受けてもかまいません。しかし注意しなければいけないのは、受けの軌道です。
- 開祖の写真の腕の内側が内腕刀、外側が上受けに使う手刀と外腕刀。
手刀に近い尺骨は弱い骨で、ここを骨折した事故を二件知っています。一つは払受段突。もう一つは飛二連蹴の内受でです。日本のプロ野球でも、最近、デットボールによる尺骨の骨折で3人の選手が休場したそうです。
少林寺拳法の受が開手で手首を生かす事を基本とするのは、筋肉の最善活用だけでなく弱い部位を補強する意味もあります。そして、合掌からの上受けや払受をさせることにより、受けの軌道を学ぶのです。
その他の注意点。基本の上受は前方ではなく、上方に向かって受けるようにします。ちょうど頭一つ分が目安です。何故かと言うと、凶器=棒などで襲われた場合、打って来る手はしなる=尺屈するからです。特に相対形の場合は受けが前方に出やすい傾向があるので注意を要します。
もう一つ、受ける時に肘と頭の間が開き過ぎないこと。上記した様に、手刀切りの要領で切り上げます。肘と頭の間が三角様になっている=肘から上ると、相手の打ち込みをもろに受けてしまいます。振身が足らない事が考えられます。
6.最後に
合掌・結手が形式的な動作になってはいけません。少林寺拳法を修練するにあたり、卍と合掌・結手の意味を正しく理解し、正しい形で繰り返す事が重要です。あたかも仏教における行法の様に「合掌行・結手行」として行いましょう。そうすると、自然に武術に陥る事なく、「力愛不二」の真の武道である少林寺拳法を身に付ける事が出来ると信じます。
2021年11月
金剛禅総本山少林寺横浜根岸道院
道院長 渥美紳一